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日本帝国の戦争目的を一次史料で見る



 

要点:

(1) 日本帝国がアジア太平洋戦争を起こした理由は、東南アジア一帯を支配下において重要資源を自給すると共に、中国への軍事援助ルートを絶って日中戦争に勝利するため
(2) 開戦は1940年7月の方針決定で視野に入れた。
1941年の対日石油禁輸などを理由に「やむを得ず開戦に追い込まれた」というのは時系列が逆で、明白な嘘
(3) しかも、当時の「自存自衛」とは資源の自給を指しており、現在の「自衛」という言葉とは別物
(4) アジアを解放するため、は虚偽のプロパガンダ。
マレー半島・ボルネオ・蘭印(インドネシア)主要部は日本領土編入が方針、周辺地域に立てたのも傀儡政権に過ぎない
 

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「自存自衛」と大東亜共栄圏の本当の意味 

(11分34秒)

日本がアジア太平洋戦争の大義名分に掲げた「自存自衛」と「大東亜共栄圏」。この2つはどういう意味、実態を持っていたのか。何かの言い訳になり得るのか。
そして、アメリカの要求を呑めず、石油禁輸解除より開戦を選んだ一番の原因は何か。要所の史料を見ながら振り返ります。

 日本帝国の戦争目的は、一言で言えば「東南アジア一帯を支配下に収め、資源を獲得し自給を達成する事」でした。
 自衛戦争でない事はもちろん、アジア諸民族の解放などはむしろ戦争目的に反する事でした。

 これを、当時の日本帝国自身の文書で確かめていきます。
 開戦までの年表を順に追って、出来事を確認しながら、主要文書を見てみましょう。
印の文書に解説(紫色セル白抜き)をつけてあります。
 主要文書の原文は、リンクをクリックすると読むことができます。

西暦 月日 欧州 独・伊 日本 米国
1939 9/1

第二次世界大戦勃発

独、ポーランド侵攻
1940 5/15 オランダ本国軍、ドイツに降伏
女王は英国に亡命政府維持
6/14 パリ陥落 フランス、ナチスと休戦
ヴィシーにペタン政権樹立
7 Battle of Britain
ドイツ、英本土へ航空攻撃開始
7/26 基本国策要綱を閣議決定
日本支配による東亜新秩序の建設を謳う
ナチス・ドイツの快進撃を見た日本は、この「基本国策要綱」によって、 『八紘一宇』、すなわち天皇が頂点に立つ「大東亜の新秩序」を建設する、 「日満支を一環とし大東亜を包容する皇国の自給自足経済政策」を確立する、と閣議決定します。
7/27 世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱
時機を見て南方進出のため武力行使、
   英国との交戦を計画

    対米戦にも用意と明記
前日の閣議決定を受け、更に具体的に軍事行動などの方針を規定しています。
特に第三条において、「南方」に武力行使する、英国をその相手と想定する、この為には米国との戦争も想定して準備すると明記しています。
その目的は「日満支を骨幹とし概ね印度以東豪州、新西蘭以北の南洋方面を一環とする自給態勢を確立」としており、この時点で既に資源自給のための戦争まで視野に入れていた事が証明されます。
9/23 北部仏印進駐 援蒋ルート遮断と南進の
為、ハノイ進駐をヴィシー政権に呑ませる
→武力による現状破壊と非難
屑鉄と航空機用ガソリンを
対日禁輸
9/27

日独伊三国軍事同盟成立

独伊に欧州の、日本に東アジアの指導的地位を相互認定
米国と開戦した国を他の同盟国が援助と規定(米国への牽制)
→日本、米英との対立を決定的に
日本は独伊の欧州に於ける、独伊は「日本国の大東亜に於ける新秩序建設に関し指導的地位を」(第2条)認め互いに尊重する、いずれかが第三国から攻撃されたら相互援助する、という内容です。
これにより、日本は第二次大戦においてドイツ側に明確に立ち、また世界再分割を枢軸国間で認め合った形になりました。
但し、日本当局が描いていた日独米ソによる世界再分割の絵は、翌年6月の独ソ戦開始で文字通り絵に描いた餅に終わります。
12/29 ルーズベルト大統領、炉辺
談話で「米国は民主主義の
兵器廠
になる」と宣言
1941 2/12 日米交渉開始 中国問題・通商正常化・
三国同盟などにつき協議(野村大使)
日米交渉開始
(ハル国務長官)
4/13 日ソ中立条約調印
西暦 月日 欧州 独・伊 日本 米国
1941 6/22

独ソ戦開始

7/2 情勢の推移に伴ふ帝国国策要領を決定
情勢に拘らず南方進出決行の方針
対英・対米戦争辞さず、対ソ戦も準備
独ソ戦開始で北進=対ソ戦の誘惑に揺れ動きながらも、「世界の情勢変転の如何に拘らず」「大東亜共栄圏を建設」する、と御前会議で南進の方針を決定しました。英国に加え米国との戦争も辞さないと明記されています。「自存自衛」の文言も登場しています。
これに従い、同月南部仏印進駐が行われています。
7/21 南部仏印進駐を察知、日米
交渉の基盤なくなると警告
7/25 日本の進駐方針を確認、
在米日本資産凍結
7/28 南部仏印進駐 タイ、ビルマへの圧力確保
シンガポールが航空爆撃可能圏内に
在英日本資産凍結
日英通商条約
廃棄通告(英)
南部仏印進駐に態度硬化、
対日石油禁輸
よく開戦の言い訳に使われる米英両国の対日石油禁輸ですが、順番は日本帝国の開戦方針決定より後である事が明白です。
石油を禁輸されたから「自存自衛」が持ち上がったのではない事も、出来事の順番から明らかです。
そもそもこれまで見た通り「自存自衛」とは資源の自給の事であり、正当防衛という意味ではありませんでした。
アジア太平洋戦争は、石油禁輸の前年、ナチスの破竹の進撃に触発され、すでに日本帝国の国策とされていたのです。
8/14 大西洋憲章
(英)
大西洋憲章
英国と共に発表
9/6 御前会議 帝国国策遂行要領を決定
対米交渉決裂
10/18 東條英機内閣成立
11/5 御前会議 帝国国策遂行要領を決定
11/20 南方占領地行政実施要領を決定
資源確保に重点、独立運動は抑圧
開戦後何をするかを決めた文書です。
ひとまず占領体制を固めた後に出てくるのは国防資源確保の話です。「要領」のニから五まで、ほぼ資源確保と輸送の話で占められています。
そして現住民族の独立運動は当面抑えろと言っており、「アジアの解放」など全く目的外であった事が、この史料で証明されます
11/26 真珠湾攻撃部隊出発
11/27 (米国時間11月26日)
いわゆるハル・ノートを提案
12/1 開戦決定
御前会議で対米交渉不成立と判断
12/8 アジア太平洋戦争開戦
(日本時間)午前1時30分 英領マレー半島コタバルに上陸開始(宣戦布告無し)
午前3時19分 真珠湾奇襲攻撃開始
午前4時20分 ワシントンで米国に宣戦布告通知

 更に、開戦後もっとも占領範囲が拡がった時点での態度を見ると、戦争目的が領土と支配域の拡張である事が決定的に出ています。
 1943年5月、御前会議で決定された大東亜政略指導大綱がそれです。

 この大綱によれば、占領地は右図のように扱うと定められました。

 オランダ領東インド(現在のインドネシア)の主要地域やイギリス領マレー・ボルネオの殆どは日本領に編入するとしています。

 ビルマは一部をタイに割譲、一部は保留とし、残る地域に独立の体裁は与えるものの、日本のコントロール下に置くとしています。

 フィリピンは元々宗主国の米国が1946年に独立させる事を確定していたので、日本がたとえ完全独立させていたとしても独自の貢献をした事にはなりません。

 フランス領インドシナ(現在のベトナム、ラオス、カンボジア)については、フランス本土がナチス・ドイツの支配下にあり、そのヴィシー政権が交戦国でなかった為、軍が進駐しただけで「解放」とやらの対象になっていません。
 (後、フランス本土が解放され連合国側になってから開戦、占領しています)

 こうしてみると、特に石油などの資源があるインドネシアとマレーシアにおいて、「アジアの解放」とは真逆の、植民地争奪しかしていない事が明確になります。



 以上見た通り、「自衛のためやむを得ず」「アジアの解放」など嘘八百である事は、当時の日本帝国の内部文書から明白です。

 歴史は、自分が気持ちよくなるための物語ではありません。また、歴史的事実をわきまえずに被侵略国の人達に接することは甚だ無礼です。
 劣等感を愛国心で埋め合わせたい人達の甘言(?)に騙されることなく、自国をも客観視して正しく歴史を理解することが、アジアで生きていくために重要です。



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