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日本の朝鮮統治は赤字を貢ぎ莫大な資産を残した説

 
 赤字の分はそっくりそのまま朝鮮人民の福利厚生と蓄財に注がれた、と言いたいようです。
 検証すべきステップをいくつもワープした珍説ですが、、いちおう検討してみましょう。

まとめ

@ 総督府は(日本から見て)黒字で終わった。「赤字」が朝鮮人民の懐に入った形跡は無い
A 赤字が残ったとしても単に統治に失敗しただけで、自業自得
B 総督府の借金を上回る鉄道投資が行われ利益を出していた。幹線の初期投資は元本回収済み、朝鮮は利益を貢いだ側
C 借金残は日本が自ら引き起こしたハイパーインフレで紙くずになった。民間人もどのみち財産税で資産を失う運命だった
D 植民地支配下で日本人が独占的に稼いだ利益、資産はそのまま朝鮮民族の機会損失。接収されても文句は言えない
E 賠償をまけてもらった講和条約の枠組みの中で在韓資産を放棄したのだから、文句を言える筋合いにない
F 戦後の韓国から見れば米国の援助が日本の遺留資産をはるかに上回っており、日本の遺産で発展したとは言えない


 朝鮮総督府が赤字経営だった時期もありますが、ムダ遣いしても、ムダな物に投資して失敗しても赤字になりますし、日本から進出した企業に貢いだのなら朝鮮人民には関係のない話ですね。
 税収増や事業収入でペイできるように開発政策と税金を設計していなかったなら、それは政策立案のチョンボです。

 そして、ムダでない資産については、植民地支配がなければ朝鮮民族自らの手で建設し自らの物にしていたでしょう。
 併合期の35年という月日は、インフラへの有効な初期投資を回収するのに充分な時間です。
 日本はその機会を奪って自分の資産として握り続けただけですから、これまた感謝しろと言える筋合いではありません。
 (このあたりの仕組みは鉄道の事例をご覧ください)

 支配者の立場を利用して得た鉱山採掘権、企業利権についても同様です。植民地支配がなければ朝鮮民族自身によって資金調達され、事業が興され営まれていたのですから、日本の儲け=朝鮮民族の機会損失という事になります。平和裡に築いた海外資産とは訳が違うのです。「日本人が額に汗して稼いだ」云々という物言いは、額に汗して美味しく稼ぐ機会を朝鮮民族から奪った事を都合よく忘れているだけです。

 必要な議論はこれだけで満たしていると私は思いますが、せっかくですので数字も確認してみましょう。


国債で投資し、官業で稼いだ総督府


 インフレと戦時体制移行で数字がズレ始める直前あたりということで、1935年の朝鮮総督府決算を見てみることにします。

★ 官業会計のウェイトが大。収入源は広く薄く


 鉄道と専売事業(たばこ、人参、塩、阿片(!))、資産収入で1億76百万円を得ています。経費として鉄道、専売、営林署、逓信(郵便、電話等)の費用を差し引いても35百万円が手許に残った勘定になります。

 一方、租税収入は64百万です。内訳は下の通りで、付加価値生産に応じてかかる税(所得税、営業税など)のウェイトが低く、そうでないもの(酒、土地、砂糖消費)からの税収で半分以上に達しています。
 地税は実際には地税は小作人に転嫁されるのが通例だったという事なので、担税者の主力は小作人、酒呑み、甘党となり、貧富にあまり関係なく広く税が負担された事になります。更に専売収入の大半はたばこですから、総督府の税・事業収入の過半が、朝鮮の土地と朝鮮民族の嗜好品消費活動に依存していた計算になります。

★ 前年度剰余を繰り入れ、毎年余して繰り越している。


 単年度毎に余剰を回収されなかったのですから、総督府の自由度が大きかったということでしょう。1910年度以降毎年繰り越しており、1940年度末の繰越額は1.8億円に達していました。

★ 税金がとりたてて安かった訳ではない。


 朝鮮総督府の税務課が第86回帝国議会に出した説明資料(不二出版復刻版の第10巻P267-269)によれば、一人あたり所得と担税額、担税率は次の通りでした。
1943年度 一人あたり所得 一人あたり担税額 租税負担の割合
日本内地 817円 116.792円 14.2%
朝鮮 158円 18.968円 12%
 5倍を超えるすさまじい所得格差ですが、それでも12%程度しか違わない担税率です。累進課税制度であれば、平均負担率はもっと差が開くべきです。所得見合いでは、朝鮮での税負担はむしろ割高と言える水準だったとも言えるでしょう。

★ 公債費収入を受け入れ、国債整理基金に返している。


 「朝鮮の開発に必要なる継続事業費は朝鮮の一般歳入を以て之を支弁する余裕なかりしを以て、此等の財源は総て公債もしくは借入金に依ることとし…(中略)…大正八年三月、事業公債金特別会計法の公布に伴い、朝鮮事業公債金特別会計法は廃止せられ、朝鮮に於ける国債は中央政府に於て、一般事業公債と共に統一整理することとなれり」 (1941年度朝鮮総督府施政年報、P107-108)

 つまり、鉄道や港湾、道路などへの初期投資をするだけの財源が朝鮮自身にはなかったので公債を発行して借りた、1919年以降の発行分は日本本国の国債と一体化した、ということです。
 発展途上国、そして戦後スッカラカンになった日本も、外国や国際機関から借金してインフラを整備しました。これと似たファイナンスです。
 余談ですが、東名高速の静岡県内区間を建設するため日本が世界銀行から借りた借款を完済したのは1990年7月で、この日まで日本には借款の借入残がありました。国外からの開発借款がある事を発展途上国と定義するなら、日本はこの日まで発展途上国だったのです!

 という話はともかく、借金と赤字はイコールではありません。借金で投資した案件が経済的に成り立つもので適切に運営されるなら、返済期間は長いかもしれませんがいずれ完済できるものです。日本が朝鮮に建設した鉄道のうち、輸送の4分の3を占めた4幹線は1914年までに全通していますから、30年以上も経った1944年には投資が回収され、朝鮮の完全な所有に帰しているべきものでした。
 そうならなかったのが、侵略の侵略たる所以です。ともかく、1940年度末に朝鮮総督府が負っていた借入残は9億6413万円でした(1941年度朝鮮総督府施政年報、P109)

★ 日本政府からもらいっ放しのお金は「補充金」、ウェイトは1割未満


 投資残高を赤字と勘違いしている向きを除けば、正味赤字と言い得るのはこの補充金ということになります。
 1935年度の歳入に占める割合は3.9%(右上グラフ参照)、金額の推移は次のグラフのような按配でした。
 1944年度以降は決算ができなかったものと思われますが、敗戦の年1945年まで予算通り全額支払われたとすると、朝鮮総督府が受け取った補充金は36年分総額で4.4億円になります。

 自業自得、「自己責任」と書いて猫の絵でも添えたプラカードでも突きつければ(趣味は悪いですが)済んでしまう「植民地経営の赤字」ですが、いま少し掘り下げて遊んでみましょう。


支出/収受を見る:「赤字」は朝鮮人民に貢がれてない


★ 収支トータルでは累積6億円以上の黒字だった


 公債による借金(貸す・借りる)は後で見るとして、まずは一方通行の「あげる・もらう」から見ましょう。数字の出所、不明年度の仮定は上のグラフと同一です。
 軍事費繰入金というのは、1937年以降、日本本国の軍事費を朝鮮総督府が一部負担したものです。要は日中戦争で台所が回らなくなってきたから、自国の戦争の費用を朝鮮にも分担させようという趣旨です。
 そんなの朝鮮人民の知ったことではありませんが、ともかく負担させたのは事実で、このお蔭で日本政府からみた朝鮮総督府の累積赤字は1937年の3.1億円で底を打ち、1943年には黒転、1944年度末には予算ベースとはいえ瞬く間に5.8億円の累積黒字を積んでしまいます。

 赤字じゃないじゃないか。黒字じゃないか!

 どうしてこれが広く知られていないのかな。おそらく、「1936年まで朝鮮は軍事費を1円も負担していなかった」論が煙幕を張っているからなのでしょう。元から応分の負担をしていればもっと赤字になった筈だ、と。
 とんでもありません。
(1) 朝鮮を植民地支配することで節約できた軍事費を差し引いて考えるべき。
山県有朋の利益線演説(第1回帝国議会、1890年)などで明らかなように、軍事的理由で朝鮮支配に乗り出したのだから、朝鮮を支配する事で総軍事費が安くなった筈。でなければ韓国併合は目的に矛盾する行為で、併合しない場合より軍事費がかえって嵩んだならそれは日本帝国の自業自得。
(2) 朝鮮に居た日本軍は、日本が外征するための軍隊。専守防衛には過剰で日本本国ですら重い負担になっていたし、朝鮮を日本から護っていなかったのは自明の理で、そんなもの朝鮮人民が費用負担するいわれはありません。日本の侵略戦争だった日中戦争、アジア太平洋戦争の戦費についても同様で、特に後者は連合軍が結果として解放軍になった故、朝鮮にとって全く無駄な戦いでした。
(3) そもそも帳簿外の話をしていいんだったら、未払い賃金とか賠償とか、いくらでも拡散していきます。議論は整理よくやりましょう。ここでお話ししているのはあくまでも総督府の帳簿に計上された収支です。

★ 貸し借りを含めて考えても、政府部門は朝鮮側の持ち出し


 植民地期朝鮮の全体収支はきちんとした資料が揃っておらず、何がいくらの収支だったか自体が大学で研究のテーマになっています。
 左のグラフは、そのような研究書の1つである「日本帝国主義下の朝鮮経済」(金洛年著、東京大学出版会、2002年)掲載の算出額です。
 これが唯一絶対とは言いませんが、少なくとも専門の研究者がこのような数字を算出しているという事です。これをひっくり返すには、より信頼性の高い別の推算を提示する必要があります。
 プラスが日本側の持ち出し、マイナスが朝鮮側からの持ち出しです。

 国庫資金に日本軍の軍事費が含められているため、一つ上のグラフと数字が一致しませんが、それでもほとんどが戦時国債である「日本の有価証券購入」ひとつで朝鮮からの大幅持ち出し(5億円弱)確定です。
 左グラフは1944年までですが、1945年6月末時点では銀行部門だけで国債保有高が27.4億円に膨れ上がっています。
 なお、この金洛年教授の計算では一般民間会社の投下資金残高を11.4億円と算出しています。上記の1945年6月末国債残高を加味して政府部門と合計すればやはり朝鮮側持ち出し超過の推算となります。

★ 補充費に匹敵する正貨準備を朝鮮から得られた。充分ペイしている


 1910年から36年までの累計で朝鮮から持ち出された金(きん)の合計は、ネット(出入りの差分)で3.2億円弱です。同じ期間の日本→総督府の補充金合計は約3.2億円で、ほぼ同じ水準です。
 また、日本への移出額(ネット)を統計年報から入手できた1927-36年の8年間を見ると、全ての年で日本へは移出超過、外国へは輸入超過か±ゼロとなっており、8年間トータルでは朝鮮からの持ち出し量合計プラス34百万円分の金(きん)を日本に移出しています(下のグラフ、後述)。
 私はこれだけでも総督府への補充金は充分元が取れていると考えます。金資金特別会計というものが別途からんでいたようですが、関係ありません。
 理由の第一は、当時の世界では金本位制、つまり金(きん)が貨幣の基本という考え方が非常に強かったからです。
 第二に、日本帝国がこの朝鮮の金(きん)に払ったペーパーマネーの日本円は、後述するように戦後紙くず同然になったからです。
 結果として、日本帝国は朝鮮から紙くずで金(きん)を買ったのです。

 金本位制(明治序盤の日本は銀本位制)においては、銀行券は正貨である金(きん)の引換券として発行されます。本物のお金(かね)である金(きん)の代わりということで、これを兌換券と言います(右上画像は、かつて日本で発行された兌換券の5円札)。
 よって、発行できる銀行券の量は、発券銀行が持っている金(きん)の量で決まりました。概ね金(きん)準備高の3倍程度が上限です。
 日本が輸入超過になると、日本円を受け取った外国の銀行が日本銀行に来て、日本円と金(きん)の交換を要求します。これが過ぎると日銀の金準備高が減り、発行できる銀行券も減って経済が縮む、という仕組みです。
 現在の日本円は信用を裏づけとして発行されているだけの管理通貨ですが、戦後のブレトン・ウッズ体制も米ドルの金兌換を裏づけとしたし、今でも米国FRB、日銀を含め多くの中央銀行は金(きん)を信用担保の一環として保有しています。

 1930年、世界恐慌のさなかに日本は金輸出を解禁して金(きん)の国外流出→昭和恐慌の激化を招き、翌年末に金本位制をギブアップしています。ちょうどこの時期、左のグラフに見るように、金の朝鮮から日本への移出が急増しています。
 日本が恐慌下で金を大量に国外流出させていた1930-31年はもちろん、金本位制をギブアップした後もなお金には外貨準備としての意義がありましたから、この朝鮮からの対日移出は日本の金融システムの大きな支えになったはずです(日本銀行百年史第4巻第1章P71〜82参照)。
 朝鮮の金鉱資源を支配下に置き、金(きん)を必要なだけペーパーマネーで買う事を可能にしたコストと考えれば、総督府補充金など安いものです。金と同じく正貨の歴史を持つ銀の1910-36年輸移出超過合計1.5億円を足して考えれば、充分にお釣りが来ると考えてよいでしょう。

 そして、これらの金銀は、敗戦のあと日本円がハイパーインフレで大暴落しても価値を失わなかったのです。敗戦までに費消してしまっていたかもしれませんが、それは朝鮮の責任ではありません。

★ 補充金は朝鮮人民弾圧に使われた無駄な出費。福利の役には立っていない


 これはよく言われる話のようです。1988年とちょっと古めですが、黄完晟氏の論文『植民地期朝鮮における戦時財政の展開』で数字を見てみると、司法警察費は1930年代前半に概ね年3千万円弱で推移、1937年から一気に4千万円前後に増え、1941年には51百万円、1942年には55百万円に膨れあがり、「歳出の5%にのぼったのに対し、日本の同経費は歳出の1%水準であった」(同論文、P69)。
 1942年の歳出総額は11.56億円で、1931年の2.07億円の5.6倍に達していましたが、それだけ歳出総額が膨れても司法警察費が4.76%を占めていた、ウェイト比で日本本土の4〜5倍にのぼったという事です。
 年表でわかるように、植民地下の朝鮮では植民地支配ゆえの社会運動や事件、衝突が多数起こっていましたから、司法警察費が余計にかかった事は想像に難くありません。具体的にその分がいくらだったかを算出するのは困難ですが、メノコとして確かに充分そう言えそうな数字です。1930年代前半の総督府補充金は年13〜15百万円レベルでしたから、ざっくり本土の倍以上の司法警察費がかかっていたなら、補充金はその割高分に全額消えていた、植民地支配ゆえの余計な出費だった勘定になるでしょう。どなたか計算してみてください。

 その外、総督府の歳出から日本人の利益に回った分を補充費分だけ探せばいいだけですから、他にもネタは色々発掘できるでしょう。


「莫大な資産」って、いくら残した?


 次は資産・出資・負債を見てみる事にします。
 ごくざっくりメノコで、本当はどれくらいの遺留資産があったのか、見当をつけてみます。
 非常に粗い計算ですから、桁くらいは合っているかも、程度の信頼性しかありませんが、桁のメドくらいは期待したいところです。

 まずは国有財産。朝鮮総督府施政年報1941年版のP104-106にかけて、1942年4月1日現在のデータが載っています。
 道路河川橋梁などの公共用財産は「台帳図面ヲ備ヘザルヲ以テ其ノ数量価格不明ナリ」として価額が載っていません。
 統治業務に使う神社・官舎などの公用財産は1,157,846,939円とありますが、土地2.6億円や鉱業権1.5万円、立木竹はもともと朝鮮の財産として存在しており、敗戦・解放によって元の持ち主に戻るだけと考えて除きます。
 営林財産は110,265,016円とありますが、森林は朝鮮の財産として建物と工作物のみ認めます。雑種財産86,225,115円も同様に考え、全合計を出すと総督府の創造した資産は上限952,621,769円と出ます。

 次に、民間資産をどうにかして積んでみましょう。朝鮮総督府統計年報の1940年版を見てみます。

 1940年度全朝鮮の工業所得は3,020万円、鉱業所得は343万円でした。商業所得は1.7億円ありますが装置産業ではなく、遺した建物や機材などの資産自体が収益を生む訳ではないので、鉱工業のみを見てみます。両者の所得合計は33,626,746円です。
 この所得を生み出す設備など一式を買収するとして、いくらなら投資に見合うか。買収に投下する資本に年利回り3%を期待するなら、払える上限は1,120,891,533円と出ます。
 鉱工業資産だけでは11.2億円にしかなりません。資本金は16億円払い込まれていますから、この差分以上の額は森林や田畑の買収に使われたということでしょうか。払込済資本金16.0億円と官有財産9.5億円を足した所までで、在朝鮮日本人資産は25.5億円です。

※これはあくまでも非常に大雑把な推計に過ぎない点に留意願います。
 また、1941年以降、軍事物資増産のため朝鮮北部にかなりの設備投資がなされたので、特に北半部については、正確な値に近づけるにはどうしても終戦直前のデータが必要です。


★ 差引きすれば、鉄道以外のインフラは全て朝鮮内の稼ぎで賄った計算


 政府部門が朝鮮側の持ち出しに終わっている以上、鉄道を含めても総督府のインフラ建設は全て朝鮮自前の財源=朝鮮人民の働きで賄った、日本帝国のお恵みではない、と言える事になるのはある意味自明ではありますが、一応念を押しておきましょう。

 「公債の発行により得られる財源は、原則としてこれを一定の費途にあてる制限の下に発行される、いわゆる事業公債に限定されてきた。しかもその事業は、直接収益をもたらすものか、または小数の例外を除いては、少なくとも間接には国家収入の増加に寄与する事業に限られてきた。」((財)友邦協会『総督府時代の財政』P150)
 という次第で、朝鮮総督府の公債は本質的には建設国債でした。鉄道以外にも使われましたが、主な用途は鉄道です。1940年度末の時点で、公債金の累計は8.45億円、鉄道投資累計は9.25億円ですから、公債金全額を上回る鉄道投資をしています。
 その鉄道は単独で収益事業に育っていましたから、総督府の公債は鉄道以外を加えた総合計でも益の出る投資になっていた事になります(詳しくは「鉄道を敷いてやった説」のページをご覧ください)。ここでまた一つ、「貢いだ」の根拠が崩れます。

★ ハイパーインフレに注意


 見聞する限り、どうも解放時点で日本人名義の在朝鮮資産は700億円などという計算が存在するようです。

 1943年度の朝鮮の国民所得42億円に対して17倍、日本本土の国民所得600億円より多いというのです。
 同年の朝鮮人民の担税率12%を100年続けても税収累計は単年所得の12倍にしかならないし、日本側出資だけで積もうとしても、1935年の総督府支出と同じ2.5億円をまるごと固定資産に30年間投資してやっと75億円の投資残高です(所得金額と担税率は朝鮮総督府『第86回帝国議会説明資料』による)。
 インフラが高度に整った世界一の債権国、2012年の日本ですら、国民純資産3,000兆円は国民所得の10倍に届かないのです。
 ご自慢?の鉄道財産が1937年3月末時点で4.3億円弱(朝鮮総督府「朝鮮鉄道四十年略史」P463)だと言ってますから、700億円というのはとても辻褄が合いそうにありません。次に述べる終戦直後のハイパーインフレを何らかの方法で10倍ほど織り込んだに違いないと睨んでいますが、中身を検証するのは700億円の計算根拠が世に登場してからということで、ここではうっちゃっておきます。


帝国主義の投資残高はハイパーインフレと財産税の腐海に沈んだ


 冒頭で説明したように、朝鮮総督府の開発投資は基本的に国債が財源でした。総督府が敷いた、あるいは数多くの赤字私鉄を買収して得た朝鮮の鉄道の真の資金供給者は、当時の日本国債を買った人達です。
 この時点ですでに「日本人の血税を貢いだ」という言説は誤りだと判りますが、では国債を買った人はどうなったでしょう。

 答えは、「内国債は全額償還された」です。帳簿上は、きちんと投資者に支払われています。
 しかし、戦後すぐの日本帝国政府は財政破綻状態で、国債の日銀引受=超カンタンに言えば輪転機をじゃんじゃん回してお札を刷って復員軍人の退職金など臨時軍事費を払ったうえに、極端な物資不足と預金引出しが火をつけて、物価はすごいことになってしまいました。















 データ元は、左のグラフが日本銀行「本邦経済統計」1946年版、右のグラフが総務省統計局です。
 どちらも戦前(左:1933年、右:1934-36年)を1とした時の物価を示しています。敗戦直後は闇市が盛んで公定価格と実勢にかなりの乖離があったので、正直な途中経過は不明でしょうが、1950年以降を見れば結末はわかります。

 日本帝国が無謀な戦争を無条件降伏で終えた1945年8月末、内国債残高はその8年前の約13倍、1,175億円に達していました。更にこの他、戦時補償債務が推計1,500億円も積み上がっていたのです。1944年の推定GNPが745億円なので(以上の数字は日本銀行百年史第5巻第3章、P3-4による)、上記2つの債務だけでGNPの3.6倍もの借金を積んで負ける戦争をやっていた事になります。
 この債務の中に朝鮮総督府分の国債も含まれていました。、1940年度末で残高は9.6億円でしたが、その後5年間(最後の2年は予算ベース)の公債金収入を合わせても28.7億円ですから、朝鮮総督府の債務が日本帝国政府の全債務に占めるウェイトは多くて1%ちょいだった事になります。

 戦時補償債務は税率100%の戦時補償特別税をかけて実質踏み倒してしまいました。ほか、最高税率90%の財産税を1回限りかけて、国民の財産を巻き上げています。
 国債は踏み倒しませんでしたが、国債は債券だから、最高でも額面分の支払責任しかありません。物価が100倍になれば、現金と一緒に国債の価値もそれだけ縮みます。国債を持っていた人(大半は日銀、金融機関、大蔵省預金部=郵便貯金)は額面通りのお金を受け取り、借金した側(日本政府、間接的には納税者)は元々の数百分の1に縮んだだけ負担して済ませてしまったのです。

 これが、植民地朝鮮に投資した日本帝国のお金の結末です。というより、戦前の日本円そのものの結末です。
 自ら起こした戦争のツケでハイパーインフレを呼び、全ては紙くず同然のチャラになったのです。
 いや資本金は現地で工場や機械に化けてるんだから、現物価値で計れと図々しく言う人が居るかもしれませんが、そんな事がなぜ要求できるのでしょうか。
 失った価値を試算するなら、失った時点、つまり遅くとも1945年9月25日より以前の価値で計らねばなりません
米軍 朝鮮軍政庁 法令第33号 「朝鮮内にある日本人財産取得に関する件」
第2条 一九四五年八月九日以後、日本政府、其の機関、又は該国民、会社・団体・組合、該政府その他の機関、又は該政府が組織、もしくは取締る団体が直接又は間接に、全部又は一部を所有又は管理する金・銀・白金・通貨・証券・銀行勘定・債券・有価証券、ならびに本軍政庁管轄内に存在する其の他総ての種類の財産、および其の収入に対する所有権は、一九四五年九月二十五日付を以て、朝鮮軍政庁が取得し、朝鮮軍政庁が該財産全部を所有す  (下線引用者。原文はカタカナ文)
 1945年9月25日の時点では、まだ怒涛のハイパーインフレは始まっていませんから、何の現物に投資された資本金といえども、価値が百分の1以下に縮む前の日本円で評価額を固定されるべきものです。
 もし失った後の価値増殖もカウントしろ現在の現物価値でなきゃイヤだと虫のいいダダをこねるなら、これは接収後も所有権(請求権)が継続した話にしろという事ですから、1946年3月3日に最高税率90%でかけられた財産税をかけ直す話になり、いずれにしても民間人の手許には残らないでしょう。それに、朝鮮戦争で破壊され灰燼に帰した分の損失も負うべきことになります。

 戦時補償債務の踏み倒しと財産税さらに超ハイパーインフレで一億総スッテンテンになった事を忘れ、これらのプロセスを飛ばして「朝鮮に遺した財産ガー」と文句をたれる向きには、まず目録を出してもらい、朝鮮民族が寄与した分を査定し差し引いてのち、財産税を支払っていただくのがよいでしょう。


日本人が残した資産は韓国や北朝鮮ではなく、米国とソ連に接収された


 韓国に残した日本政府や日本人、日本法人の遺留資産は、38度線以南において米軍に、以北においてソ連軍に接収されました。
 前者は概ね3年後に独立した韓国に譲渡され、後者はソ連がごっそり本国に持ち出したとされています。
 「残した財産ガー」を言いたければ、相手は韓国や北朝鮮ではなく米国やソ連でなくてはなりません。
 万一「日本人が残した財産」に韓国(北朝鮮)が感謝すべき部分があっても、感謝の相手は譲渡元の米国(ソ連)になります。

 そして、日本が独立を回復したサンフランシスコ平和条約の第4条には、こう規定されています。
(b) 日本国は、第二条及び第三条に掲げる地域のいずれかにある合衆国軍政府により、又はその指令に従つて行われた日本国及びその国民の財産の処理の効力を承認する。

 この「第二条…に掲げる地域」には朝鮮、台湾、樺太、南洋諸島などが入っています。
 つまり、日本はすでに朝鮮に残した財産を条約で放棄しているのです。在韓国の日本人財産を接収したのは米国であって韓国ではありませんから、これで日本の請求権放棄は確定しています。

 そして、それと同時に、つまり抱き合わせで、日本は戦争賠償をまけてもらったのです。
 第14条 
(a) 日本国は、戦争中に生じさせた損害及び苦痛に対して、連合国に賠償を支払うべきことが承認される。しかし、また、存立可能な経済を維持すべきものとすれば、日本国の資源は、日本国がすべての前記の損害及び苦痛に対して完全な賠償を行い且つ同時に他の債務を履行するためには現在充分でないことが承認される。

 もしこれがイヤだというなら、サンフランシスコ平和条約を破棄し、賠償交渉を 【連合国と】 もう一度やり直さなくてはなりません。
 そうなれば、上に挙げた第14条の「今は貧しいから、賠償はまけてあげる」もご破算となり、戦域での戦争被害はもちろん、米英軍がアジア太平洋戦域で費やした戦闘費用などありとあらゆる請求書を連合国から改めてつきつけられることになります。

 私有財産まで没収する第4条の規定はハーグ陸戦法規違反と唱える向きもありますが、その補償をすべきは戦争賠償のカタに第4条を認め国民の財産を連合国に差し出した日本政府であって、連合国ではないし、まして韓国には何の責任もないのです。おまけに、どのみち財産税で失う運命だった事も忘れています。

 北緯38度線より北はソ連が占領しており、接収したのはソ連軍ですが、そのソ連とは次のように日ソ共同宣言を結んでいます。
6 ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国に対し一切の賠償請求権を放棄する。
日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、千九百四十五年八月九日以来の戦争の結果として生じたそれぞれの国、その団体及び国民のそれぞれ他方の国、その団体及び国民に対するすべての請求権を、相互に、放棄する。

 というわけで、北緯38度線以北についても、サンフランシスコ平和条約と同様のロジックになるものと思います。
 北朝鮮の建国は1948年で、日本との戦争主体ではありませんでしたから、やはり北朝鮮に対して何かを請求するのは間違いです。


戦後の米国支援から見れば僅か


 最後になりましたが、戦後の韓国において日本帝国が遺した財産なるものの貢献度がどれほどのものだったかを占う数字を一つ挙げておきます。

 日本帝国が遺した財産(のうち、大韓民国の支配領域に入った南半部)の評価額によって多少のズレはありますが、許粹烈『植民地朝鮮の開発と民衆』(明石書店、2008年)P291のグラフによれば、終戦後たった2年で米国の対南朝鮮援助額が日本帝国の遺留資産額と並びます
 その後は米国の援助額がどんどん膨らみ、1960年には累計約30億ドルに達する一方、日帝の遺留資産は朝鮮戦争で約半分に毀損し、「1960年の時点を見ると、日帝時代の物的遺産はアメリカの対韓援助額の約7分の1に過ぎないレベルに落ちる。要するに物的遺産という側面でだけ限定して評価すれば、解放後朝鮮南部地域に残された日本人工業資産は、1960年代以降本格化される韓国の工業化で、大変限定的だったのである」(同書、P292)。
 グラフを読み取る限り、7分の1どころか10分の1以下と読めるのですが、ともかく恩を着せるのはどのみち無理のようです。


 長くなりましたが、これで「朝鮮に貢いだ」「莫大な財産を遺した」説は成り立たない事がおわかりいただけましたでしょうか。


【こちらも参考に】

日本のおかげで朝鮮が豊かになった? - FIGHT FOR JUSTICE -


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